上海人の奥さんに訊くと、上海市の一般家庭ではすでに家電製品の需要は一巡して、消費欲の対象は外国車に移っているらしい。
豊田など日本車は高い関税が課せられているせいもあり、なかなか手が出ないそうですが、現地生産のVWとかだと普通に買っちゃうらしい。彼女と結婚する前、97年頃の「埃舞う凸凹のストリートを、クラクション鳴らしながらばたばた駆け抜けていく、ボロの赤いタクシー(北京はイエロー)」という状況からは隔世の感があります。それこそ政治局員御用達の「紅旗」がいまだ走っていたような時代ですからね。
モノが売れない時代と言われて久しいですが、そもそも「高価な生産施設に設備投資し、稼働率をひたすら高め、大衆消費者の欲求に対応する」というビジネスモデルじたいが、「ひたすらモノがあり余り、そもそも置く場所にさえ事欠くどころか、リサイクルコストでさえ馬鹿にならない」という現状では機能しないに決まっている。
盛田昭夫語録には、非常に興味深いフレーズがふたつある。
「これから伸びるのはコミュニケーションの市場だ」
「製造業は情報産業だ」
(言葉は若干違うかも知れませんが、こんな意味の言葉でした)
モノづくり大国ニッポンという、よく使われるフレーズには功罪があって、「ただひたすら創意工夫で生産性を高める」といった側面で使われる場合もあれば、場合によっては「ソフトは苦手( or 米国にお任せ)、でもハードは得意」という使われ方をする場合もあります。
それを、もし「製造業は情報産業だ」ベクトルで捉え直せば、実はまだまだ日本のモノづくりは可能性があるはずだ。アニメやゲームの世界でも、世界的に高く評価される知的生産の層、創発的な土壌が元々あるわけですから、ソフトパワーの点でもそんなに引けを取るはずはないと思います(楽観的すぎるかな?)。
ただ、大量生産=大量消費のコンセプトの惰性に流されて、既にモノが十分に行き渡った後の情報化社会にフィットしたモデルを構築しなければ、早晩じり貧になってしまうでしょう。
先週NHKのある番組で主婦による商品モニターサービスの取材をしていたのですが、そこで非常に印象深かったのは、
作る・売る・買うが近づけばいい。
心が動けば商品も動く。
と、いう代表者の言葉だった。当たり前のことのような気がしないでもないんですが、案外スローガンとして振りかざしているほどには、マーケット志向、消費者志向、ニーズ重視というのは機能していません。
「だったら消費者に訊いてみよう!」と、いうのは、メーカーサイドの実状としては、まだまだ特殊事例にとどまっているように思います。で、なければ、上のようなモニターサービスがメーカー担当者にショックを与える。なんて事例が番組化されるはずもありません。
で、製造業と同じドグマに陥っているのが、マスコミ業界です。
R30さんのブログに、「はてなの将来と「参加型ジャーナリズム」という、非常に刺激的かつ実践的なエントリーがあったのですが、ここに書かれている内容がピンとくるジャーナリストがどの位いるのか?と、いうとはなはだ心許ない。と、いうか最初から貸す耳がないんじゃないかなぁ?と、思います。
はてなの将来と「参加型ジャーナリズム」
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2004/11/communityjounal.html
ところがすでに韓国では、オーマイニュースという市民ジャーナリズムがある程度普及しているようです。「メディア・パブ」さんからそのまま引用させていただくと、
市民ジャーナリズムのOhmyNews,今どうなっている?
http://zen.seesaa.net/article/3057322.html
OhmyNewsは,記事を投稿する市民レポーターを3万7000人も
抱えており,毎日150〜200本の記事が寄せられる。実際に
投稿している人数は5000人くらい。12人の専任コピーエディ
ターが対応する。投稿数が増えているので,コピーエディタ
ーも増やしたい。最初のスクリーニングで投稿記事の30%を捨
てる。残った70%の中から5〜10本の記事を選び,メインページ
の上部に掲載していく。たとえ編集方針に沿っていてもある
レベルの質に達していない記事は,はねつけるか書き直させ
る。
伝統的なメディアと違って,特に締め切り時刻はない。毎日,
読者や市民レポーターとコミュニケーションしている。エディ
ターは読者のコメントをチェックしており,必要があれば手早
く応対するようにしている。市民レポーターの記事だけを処理
する専任のデスクチームを置いているのも特徴だ。
(中略)
プリント版は2002年の早い時期に始め,有料読者に郵送して
いる。だが街角ではフリーペーパーとして配布している。
また主要地下鉄の駅では,誰もがピックアップできるように
している。他に,次世代ケータイへのDMB(Direct Media
Broadcasting)サービスにも注力している。
実は、ここまでメディアを巡る環境は地殻変動を起こしている。
昨日お仕事ご一緒している企業の担当者さんとお話をしていて、トラックバックの効用について盛り上がりました。トラックバックがあることによって始まるブログのチェーンが持つ特徴は、
・ただの合いの手や頷きだけでは恥ずかしいので、何か自分なりの視点を導入する必要がある。
・悪口雑言のやりとりを生みにくく、基本的な姿勢としては、何か建設的な議論のステップアップをしたいという積極性を育みやすい。
といったポイントがあると思うのですが、これを正しく言い当てた言葉が欲しいところです。これをうまく言語化するだけで、少なくとも本が一冊、事業が一本立ち上げられるのではと思います。
つまり、
・ブログ圏という共有地の知的財産を、
・相互にコミュニケートしながら、
・紙をすいていくように、育んでいく、
・トラックバックジャーナリズムのようなもの。
が、ここのところのブログ読みの快感の中心にあるような気がしています。で、これを言い当てる言葉があると、とっても嬉しいなぁ..と。
そして、同時に感じるのが、ニッポンの製造業が陥ってしまったドグマと同様のドグマ(製造側の有している、設備、人材、流通網、営業力などを前提条件にしてしまい、本質的な価値創造のメカニズムを見失ってしまった)にニッポンのマスコミが陥っており、相変わらず、「ブログは責任の所在が不明だ」「しっかりと取材されないブログ記事には価値がない」といったような些末な議論(?)に終始している限りは、きっと自己変革はできないだろなぁ......と、いうことを思います。
ライブドア問題終結についての社説も幾つか読んだのですが、本質論がないまま、司法判断やM&A専門家の意見を抱き合わせで盛り合わせただけの、オピニオンレス、ビジョンレスな論説(?)ばかりで、なかなか厳しいなぁ..と。そもそも地方紙の社説欄に競争原理が働くはずはなかったというべきなんでしょう?各紙の社説を相互にリファレンスして、それぞれを評価するなんて通常あり得ないですもんね。
たぶん、どの(LVを巡る)社説でも突っ込みどころが満載なので、重箱の隅モードで突っつくとそれはそれで面白いのでしょうが、そういう行為にはまるで創造的な意味がないし、それよりは世のアルファブロガー達の、高度に研ぎ澄まされながらも、同時にエンターテインメント性豊かな記事を読みふけろうと思います。
そうそう、内容のディープさに比しての文体の軽さもアルファブロガーのポイントです。
記事の品質で負けてどーする?って思うのですが(下手すると速度ですでに負けているのに)、それはもぅ、「ボランティアの強み=オープンソース的なジャーナリズムの持つ力 対職業ジャーナリズム。さらに言うとサラリーマンジャーナリズムの本質的な弱さ」なのでは?と、思う次第です。
そうそう、同じ流れで出版業界についても、今までの構造的な歪みと、今後の変革の方向性について「なるほど!」と合点がいったことがあるのですが、それはまたの機会にしておきます。
要するに、「流通2社」と「製造(=印刷)2社」のインフラ側から出版業を捉えてみるとどうだろう?と、いう課題設定です。なぜか、そこからGoogleパブリッシングに飛ぶのですが、また改めて。