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デジタルフォトグラフィーの本質を究める?
今、写真が面白くなっている理由。それはとても明快だと思う。

なにせカメラ付き携帯とコンパクトデジカメの普及は台数ベースでほぼ人口の半数程度までは伸びていて、ブログやフリッカーに限らず、画像データを流通することのできるウェブスペースにしても恐らく現状2千万程度のアカウントがあると考えられるので、メディアとしての規模と影響力はフィルムカメラ+紙の時代から考えて、大きく伸張・拡張している。

だから、表現としての写真以前に伝達ツールとしての写真自体がより一層影響力を増していると考えられる。
単純に量の拡大が=質の拡大とは言い切れないが、試行錯誤の機会は増大していて、それにまつわる言葉や評価というのもどんどん範囲を広げているのではないかと思える。
そして、少なくとも受け手側が同時に表現者をかねているケースが多く、その場合は視点もおのずと表現者側の意図により接近した見方になる場合が多い気がする。

で、去年国立近代美術館で展覧会が開催されたアウグストザンダーを一人の象徴的時代精神体現者として、現代の状況に重ね合わせたいのですが、彼がワイマール時代の人々を即物的写真表現でアーカイブしようとした表現意図というのは、今の時代において再度評価・再度試行をされていいように感じるのです。

今、彼の試験作品を見直して思うのは、随分職業的・身分的な表層を重視し、その表層の定着・描写をとても慎重に表現の中に織り込もうとしている、その姿勢の新鮮さだ。

少なくとも、あそこまで類型的・網羅的に人間の「カタログ」を作ろうというスタンスは、現代日本で「人を描こう!」と思ったときに自然に出てくるアプローチだとは思えないのだ。

なぜなら、職業的な表層に包まれた人物像をリアルな「個人」であるとは余り思わないからだ。

例えば、郵便局員、銀行員、清掃人、金融業者、教師、助産婦、風俗嬢、芸術家、哲学者・・などという風にカタログ化された写真集に今の日本の時代精神を読み取れるか?というと、それははなはだ疑わしい。

なぜなら、今のわれわれは、それを即物的に借り物としてまとった職業的なシンボルであるという以上の意味づけをことさら行わない、むしろその下の「人格」や「個性」をこそパーソナリティであるという風に考える傾向が強いからだ。
外見で人を判断しないようにしよう!と、いう教育の成果というべきか?

だからこそ、かえって、あの時代精神をそのまま直裁にアーカイブ化しようとした収集欲・分類欲・表現意図の徹底というのは今一度見直して再度適用してみると面白い気がする。なぜなら、気が付かないうちにコード化され身にまとっている時代精神のようなものがきっと今の日本にもある筈(普段は見えませんね)で、それを取り出して描くには、即物的な写真の技法がもっとも適していると思えるからだ。

記録精神と保存精神も極めると立派なアートになる。

ザンダーの試みは、ベッツァーに再発見・再評価されるまではアートとしてはみなされていなかったようですしね。

例えば、これらのうち、10年後に見直してもっとも衝撃を受けるであろう写真集(=画像アーカイブ)はどれだろうか?

1)日本家屋の写真データベース 1万件
2)生まれたての新生児のデータベース 1千件
3)東京の風俗嬢データベース 500件
4)都内女子高生の制服データベース 100件
5)葬式の遺影写真だけを集めたデータベース 50件

※思考実験です。

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カイカイキキ
カイカイキキのHPを見て思ったのですが、やっぱり勉強は欠かせないですね。村上さんは、真面目に日本のアートマーケットそのものをなんとかしようと思っている。マーケッターの立場から見ると至極まっとうな論理展開。でも、今の日本の美術市場からすると、かなり異端で受容されにくい戦略で動いているという気がする。

まず、そもそもアートの「市場」を「作品そのもの」ではなく、市場化という仕組み、仕掛けの側から捉え直し、作り直していこうというアプローチ。これ自体非常に意欲的で本質的なんだけど、きっと、現状国内のアート関連のビジネスプレイヤーからはまともに相手にされないのではないかと思う。

でも、最終的にはそれはアートを楽しむ側、それに対して対価を支払う側の、つまりマーケット(=購買者の全体像)の問題だし、少なくとも供給側の才能および意欲のストックは十分過ぎるほどあると感じるので、この動きは(喩え時間が掛かったとしても)いずれ実を結ぶのではないかと思う。

HPで拝見する限りカイカイキキの活動領域は、

・プロダクトのマネージメント
・セールスのマネージメント
・プロパティ(ロヤリティ)のマネージメント
・マーチャンダイズのマネージメント
・パブリシティ+プロモーションのマネージメント

など、かなり多岐に渡る。ただ、その反面、それを支えるべきマーケット(販路、営業拠点、評価者、流通情報共有手段などなど)はまだまだ未成熟(いや、それ以前?)なので、しばらくは供給側に消費側が追いつかない状況が続きそうな気がします。

ですが、音楽や映像、マンガなどと同様にアートが市場化をしていくだろう機縁はあちこちに散見できますし、また逆に未開拓な分野こそ成長が見込まれ、育ったときには面白い(マーケット形成時にこそ付加価値が増大する)のも事実です。


カイカイキキHPの現状だけ見ると、

・マーケットプレイス
・コミュニティ

の二つのパートが弱く、それはたまたま組織の形成段階にありがちな得手不得手の反映に過ぎないと思うのですが、でも今あるコンテンツをみるだけでも、その目指している市場の面白さは十分に伝わります。村上さんをただの現代美術家としてだけ見るべきではないですね。ビジネスの仕掛け人としても非常に核心を突いていると感じます。

□カイカイキキ□ http://www.kaikaikiki.co.jp/
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アート資本主義ブログを始めました。
今日からCNET読者ブログ「アート資本主義」をスタートしました。
http://rblog-biz.japan.cnet.com/takahito/

まだまだ始めたばかりで投稿も少ないので、このブログのアーカイブからも一部転載しています(笑)。このigulogは、そもそも自社営業用に開始した社長ブログですが、「アート資本主義」では作家としての自分を伝えて行きたいと思っています。

で、このigulogは?と、言うと現在方向性がものすごくぼやけているので、もし何かご希望のネタなどありましたらお気軽にコメント等お送りください。メールでも結構です。

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顧客から考えるアート表現。売れる芸術を考えることの意味。
どうしてもこの作品がここに存在しなくてはいけないと信じ、それをどうしても実現化させたいという一心で。それは自分自身にも言えることです。私はここに存在するという意識があるかあらこそ実在できるわけで、私の意識がその証明で、その証拠として作品がある。

99年9月の「BT」に掲載された森万里子のインタビューです。自分を奮起させるためにちょくちょくこのページを読み直しています。ある確信と、それに向けた意識の集中。僕は、今手がけている新規プロジェクトと作品制作の相互を通じて、ビジネスもアートも基本は同じなんだということを強く感じています。
それはつまり「買い手を満足させれば、それは価値がある」ってことです。なかなか誤解されやすいし、正確に伝えにくい考え方なんですが(だったら、お前の自主性や独自性はどうなるんだ?とか・・)、買い手を発見し創出するというのは非常にイマジネーティブで創発的なことだと思うのです。

凄くベタ言い方をすると、買い手を下回る売り手というのはあり得ません。必ず何かある一定のポイント(or領域)に於いては、買い手が実現し得ないこと、買い手が充足しきれないことを提供するからこそビジネスディールというのは成立します。
ですからニッチ戦略とか顧客セグメンテーションとか選択と集中とか、そういったマーケティング概念は全て「いかに買い手を(圧倒的に)越えた能力や付加価値を長期的に獲得し続けるのか?」と、いう一点に繋がるのです。提案を受ける側がその価値を認めざるを得ない場合、その提案は必ず「売れます」。その一点に関してはビジネスもアートも共通していると考えます。

また、そういう意味では全てがどこかで必ず「販売」という通過点を有しており「販売」に足る価値の創出が不十分な場合、どこかで価値創出ポイントを再度見極め直す必要が生じます。

あとは、顧客を獲得することがとても重要です。売り先の当てがある場合は、より一層の商品力向上を期待できます。同じ商品でも売り先の想定がある場合と無い場合とでは明確に品質の違いが生まれます。それにそもそも売れるということ自体が、その商品に対する最大の評価ですからその評価を得ることについて顧客理解を進めると言うのは非常に効率がいい訳です。
また、商品というのは認知と理解ということが欠かせませんから、その価値をどのように伝達していくのか?と、いうプロセスの把握と戦術策定も欠かせません。

日本市場に限って言うと3億円以上の金融資産を所有している層が約80万人程度いるらしいので、その層のどこに対してどのようにアプローチをしていくのか?と、いう視点で考えるとアート=ビジネスはよりいっそう深化できると思います。
顧客のいるところ、顧客の価値観、思考パターンを読むところから考えるわけです。僕の場合周りに上場予備軍の経営者が大勢いるので(2008年までには、恐らく10人以上?)、そういったことを洞察する際にとても恵まれた立場にいることを最近気づきました(笑)。

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コンストラクテッドフォト私論。それって問題なの?
今、撮影でハマっているのが「架空のポルノグラフィ」という見立て。
ポージングはポルノグラフィを借用。でも、欲望を喚起しない情感の感じられない画像。肢体がポルノグラフィを擬態していても、それはあくまで偽造された虚構でしかないので、宙ぶらりんのままになった解釈の行き所、収まりどころがない。

コンストラクテッドフォトの面白さというのは、その「画像表現=イメージを刺激すること」と「解釈=それを言語化し理解すること」の間のギャップにあるように思う。
借り物イメージの再構成、既存のイメージを演算操作して生まれる表現。
でも、だからこそ、その虚構性にはさみ込められたファンタジーに脳は刺激され活性化し、何かを感じ取る。


シンディシャーマンが自らを操作、擬態して作り出した数々のイメージは、ただの自己愛的露出趣味を越えて(突き抜けて)、多くの人々が有している自己イメージの仮構性を思い起こさせる。
実は、個人個人が抱く自己像の多くの部分が過去の様々なイメージの借用、合成によって出来上がっているという事実の危うさ、移ろい易さ、根拠の無さに思い至らせるドッキリがある。


ロレッタラックスは、少年少女に擬装させることによる神秘的な情感が素晴らしいのだけど、過去のピクトリアリズムと大きく異なる絵画的リアリティがある。そのイメージの内側に耽溺することのない冷静さ、注意深く選び取られた素材と考え抜かれた構図。
そしてよくよくコントロールされた質感によってもたらされる深み。それらが鑑賞者の内省を誘い、画像のさらに奥にある意味を読みとろうとする想像力を刺激する。


トーマスルフは創作開始のストレートフォト時代から、実は創作態度自体全く変わっていないように感じる。最初のポートレート以降、天文写真のシリーズでも、工業機械のシリーズでも、建築シリーズでも、JPEG(ヌード)のシリーズでも、常にそのスタンスは同一であるように感じる。

それは、アーティスト自身が撮影しようがしまいが、画像に操作を加えようが加えまいが、どの画像を作品として提出するのかという一点に於いて徹底して禁欲的であり、過激なまでに妥協がない。


シンディシャーマンは写真をイノベートした。トーマスルフはピクチャーをイノベートした。ロレッタラックスがシャーマンやルフに比べてまだまだ評価が低いのは、彼女の作品が絵画的表現にどこか従属(従事)しているように見えるからかも知れない。何がピクチャーとして成立するのか?と、いうシリアスな課題に挑戦していないからなのかも知れない。

でも、そんなことはアーティスト及びアート業界の話なのではないだろうか?
それが写真なのか?絵なのか?はたまたピクチャーなのか?なんてことを思い切り気にしている鑑賞者がどの程度いるのか?門外漢にとっては、全くどうでも良い問題のように思う。


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にほんの建築家の喜ばしき空虚から学ぶ。
「伊東豊雄・観察記」を読んで面白いと思うのは、彼の唱える「チューブ論=体内と体外は繋がっている。内も外もない論」が、彼自身の行動スタイルとパラレルである点だ。

「現象→概念組み替え→現象」が建築設計行為のプロセスだとすると、要は概念化の行為にどれだけ集中し時間を掛けられるか?深耕ができるのか?が、商売の質を決める要になる。

そしてそれを担保するための仕組み作り=組織論が直感的に効率よく組み立てられているところに伊東事務所のビジネス(生産性確保の構造とも言い換えられるかな?)のカギが潜んでいるようだ。

それは、伊東本人をハブにした、コミュニケーションとコラボレーションの束ね方そのもののユニークさと言ってもいいんじゃないかと思う。

とにかく建築家は「決める」仕事だ。ひたすらあらゆる諸元と実装を決めなければならない。
で、その決めていくプロセスのオープンさ自由さが独特だと思う。そして、その極めて日本的な柔軟さ、あらゆる要素を柔軟に取り込んでいくスタイルは、日本的な美質を含んでいるのではないかと思った。
場づくりの才能とでも言うのかなあ?

それから、建築そのものに耽溺しない、世間との相互作用。世の中の価値観の推移に対して開かれている点もユニーク。

建築の発想が建築論の中に閉じこめられない。論客や論壇や建築誌や建築家の言説に閉じこもらない。もっと社会がどういう風に変化していっているのかを読み、さらにその先に来る生活様式を積極的に仮説化し提案していく意欲を感じる。

それはメディアテークに入ったときにそう感じたことだけど社会的なコミュニケーションのあり様(その変化のベクトル)への独特の先取り感がある。


建築はそもそも過剰なまでの制約とのバトルだから、ネジひとつ、コンクリひとかけらから役所の認可や行政との交渉など、常にあらゆる行為が制度や既成概念との闘いと言える。でも、その軋轢そのものは実は利用者とは全く関係ない次元のことだし、さらに建築家の言説やその背景にある建築論なんてどうだっていい話だ。

だからこそ、世間への目線というのは物凄く重要なコネクターなんだけど、現実的にはなかなか接続し続けるのは難しいようだ。

しかも技術や素材、行政や美学など様々な領域をネットワークするトータルアートだけに言説の重みや拡がりも相当でそのしがらみから逃れるのも相当大変だと思う。そこにも「内=外」という自由な捉え方、考え方、臨機応変がうまく作用して彼の建築行為を身軽なものにしているように思う。

言説・概念が現実へのアプローチ、ビジネスの有り様を力強く支え組み替えている気がする。


で、この「建築家の記録」を読んで考えたことを幾つか..。

1)仕事が継続的にうまく運ぶ仕掛け=仕事を「深耕できる」仕組みの整備をしっかり考えなければならない。

2)仕事の分野・領域・環境・媒体などを言い訳にしてはいけない。不足や欠如、制約や限界は視点の切り替えひとつで強味や可能性にも組み替えられる。

3)対話や協働の重要性。異なる分野で一流の仕事をしている人とのオープンな協働関係によるレベルアップを心がける。これに勝る学びの機会は他に無い。


今手掛けているコンサルティング案件では、様々なワークショップを仕掛けてみて、結果「学ぶ組織」をどう作るのか?それが将来的な企業価値を担保する最も効率的な攻め手だという結論に至った。

で、今はただそのロジックを磨くという方向性ではなくてまさにそれを実践するための格好のプロジェクトを現実に提案するというアプローチに切り替えた。

これが実現できれば事業そのものが新たにひとつ立ち上がるし、組織のありようや動き方動かせ方も格段にレベルアップすると確信している。

つまり「実業=学び」「学び=実業」という考え方です。


伊東事務所のプロジェクト運営は「学ぶ組織体」の実例のように感じる。


あと、考えてみると(今ちょうど手がけつつある)写真も「現象→概念組み替え→現象」の行為なんですよね。建築と同じく。やっぱり写真は面白い!と、建築家の仕事記録を読んで改めて思いました。これを極めないでどうする!?

世界を切り取って、それを組み替えさらに新しい価値観として提案する..。

こんなに面白い作業はなかなか無いと思う。これもつまりは学び=現実の対象化・思考の組み替え・価値観の再構築なんですよね。


おまけに新しい椅子のデザインをひとつ考えました(笑)。きっと、いつか実現するだろうからスケッチだけしておく。フレキシブルな棚としての椅子です。

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にほんの建築家の喜ばしき空虚。
「にほんの建築家 伊東豊雄・観察記」を読んだ。

建築家自身が本文の語り口からするする〜と、こぼれ落ちて希薄化していく文体・構成が面白い。本の語り口そのものが伊東豊雄の建築概念とパラレルになっているんですよね。

せんだいメディアテークは、伊東豊雄を知る前に建物そのものに興味があって訪れた(別の用件があったので)。
いや、驚きましたよ。メディア活用を促進するための公共施設なのですが、「壁が無い」「部屋が無い」「構造体むき出し」で「人が流れるように浮遊する」建築なのですよ。

いや、決して建築雑誌の受け売りとかではなく(建築についてそもそも興味が無かったので知識も無かった)本当にそういう建築なのです。従来型の「汎用的な機能性を備えている箱を空間に配置する」と言う(ニュートラルな?)建物の造り方考え方からすると、ひどく斬新と言うか、自由な建築だなあと感嘆をしました。

で、それは恐らくデコレーションとしての意匠操作による出力ではないと思ったのです。公共施設での自由闊達なアクティビティを呼び覚ますために、喩えて言うとソフトウェアインターフェイス設計を凝らした結果の空虚性(ユーザーに使い方を委ねている)の賜物だろうと思い返しました。
これは実に面白い!しかも非常に楽しい!(実際、ショートトリップだったので、その場を去りがたかった)

で、後で気が付いたんですが、みなとみらい線の元町・中華街駅のチューブ性=これも流れるように移動する構造、そして光る白の壁面(Apple iBook表面のような質感)と、そこに配された薄いグレーのテクスチャーパターン(TIFFのハーフトーンのよう)による皮膜感覚。その独特の居心地のよさ(でも経年変化には弱そう)。
そして東雲キャナルコート(うちの近所です)の淡い色使い、希薄かつ表層感覚がむき出しのあやうくはかない存在感。スクエアな構造体なのに威圧感のまるで無い控えめな建築。

(全部後になって伊東建築だと知った)彼の制作物の一様に感じ取れる「薄さ」「脆さ」「控えめさ」「空気感」「有機感」など、なるほど生活と言うものの捉え方、洞察、仮説の立て方次第で建築=都市感覚=住感覚というのはここまで変わりうるものかと感心をします。

さらに反論をしたい(笑)駄目駄目建築についてつらつら語ろうかと思ったのですが、仕事があるのでこの辺で・・・。

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本だってネット端末のようなものなんです。21Cのウォーホルとは?
今手元にあるロレッタラックスの写真集。恐らく、この作品のほぼすべてはカメラのファインダーを経てからのち一切空気に触れることなく印刷・製本されている。以前なら普通にあった、現像や印画紙出力、製版などの過程がトータルにデジタライズされているから。

だから、われわれはもはやこういった写真集をコンピュータのディスプレイと同等に考えてよい。例えば、実用化直前の電子ペーパーも考え方としては電子化されたインクを電子化された紙に定着させる為の技法です。だから、その表示プロセスのタイム・サイクルこそ違えども、もし日常的に利用可能になった近未来には限りなく現状の紙に近似した表現力・質感を持つでしょう。そしてその結果、見た目の違いは驚くほど無くなるでしょう。

だから、紙の本=コンピュータディスプレイ=デジタルアーカイブのウィンドウとメニューと言っても差支えが無いんです。


アンディウォーホルという天才的なビジネスマンがいるのですが、彼が全盛期に扱った50−70年代特有のマチエール、テクスチャー、例えば、モノクロ印刷の網点やカラー印刷のドットといった質感は、今のわれわれのメディア環境に置き換えると、いったいどういったサーフェイスになるのだろうか?

いまだにウォーホルと同じマチエールの繰り返しに陥っている作品を見るのは退屈を通り越してあまりに自堕落だろうと思うのですが、写真のプリントさえもインターネットのモニター表示と捉えてみると、もっと面白い表現が考案出来そうでしょ?
トーマスルフの「ピクチャー」(例えば、「ヌード」で取り扱ったネット・ポルノの画像データとか)なんてその先鋭ですよね。


デジタルデジタルっていうけど、本当にその境界線は曖昧ですし、その曖昧さ、コンフュージョン、相互侵食、相互乗り入れは特に昨今顕著です。もうそろそろそれらを二項対立で捉える捉え方自体外してみるのがいいと思います。皆さん頭が固すぎますって。

例えば紙の本、紙の写真集だと、リアルタイムに書き換えが出来ないとか、ハイパーリンク=ハイパージャンプできないとかいろいろ制約があるように感じるでしょ?
でも、書き込み不能やリンク不能もある種の機能性=不可機能と言えなくも無い。

デジタルとアナログを対立させて考える考え方は、全面的に疑って掛かっていいです!

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「アートだから値段が高い」ではなく「値段が高いからアート」
「乱世を生きる 市場原理は嘘かも知れない」を読んで感じたことだけど、「語り得ることと語り得ないこと」はある程度分別して語るという姿勢は大切だ。
それと、「こうあって欲しい」によって論をコントロールすることには限界がある。頭が良くセンスの良い人は言語操作の力量があるから、レトリックやロジックでいかようにでも思念をマネージできる。あるいはできるように振る舞うことができる。

でも、これはその語り手にとって幾分不幸な側面がある。なぜなら本来なら言葉を通じて新しい観念を獲得したり、新しい価値観に気づいたりする機会をフイにしてしまう面があるからだ。すべてそうあるべきとは思わないけれど、何かを語ると言うことはそれを通じて思念を開き、交感・共感・共鳴・協奏を働きかけていく(開かれた)プロセスだ。

脳内の思念を言葉というツールを通じて外部化し交換可能にする。
それがただの自己言及の繰り言になってしまってはいつまでもその言葉は開いてはいかないし、新しい気づきには至らない。相互作用が生まれ得ない。


例えば、エコノミーの限界を思想的言語で批判することはいかようにでも出来る。例えば、自動車のエンジン(内燃機関)に大気圏外活動ができない(空気がないと燃えないから)といちゃもんを付けるのは確かに可能だ。
でも、それは論としては確かに成立するけれどいかにも狭い議論だ。そりゃそうだろう..からは出ていかないから。

また、自動車が人を幸福にしえないと嘆いてみても虚しい物がある。そりゃ確かに、自動車存在(笑)が根元的に人の幸福感を担保することは余りなさそうなんだけど、そもそもそういう目的で設計されている訳ではないし幸福感なんて人それぞれだから、そりゃまぁそうだけどねぇ..っていう程度のことでしかない。


最近はまっている「アートを経済の文脈で語ること」の意義は十分にあって、それは交換経済の尺度で考えることによって製造・販売・流通から視たときの新しい気づきがあるからだ。いや、新しい気づきを得て新しい価値観の創造に役立てる目論見があるわけだから、最初からそういう気づきを得るために経済の視点を導入すると言った方が正しい。

で、そのときにそのアート表現の内容を云々する必要は余りない。あるいは云々しないほうが議論がクリアーになる。それがアートかどうかは自己言及的に思念のやりくりをしても見えてこないし、少なくとも経済の文脈で交換価値云々を考える際にも、閉じた想念、自己言及的な言語操作からはしっかりした議論はできない。

なぜなら、市場というものは他者の参画と相互評価・相互合意を通じて成立する物だから。価値を提出・提案するのが表現者だとしてもその市場価値は市場の担い手の相互合意、価値形成を通じてしか決定し得ない。なにしろ「交換」経済だもんね。

だから、表現それ自体を云々することには限界があるし余り意味がない。でも、その「語り得ることを限定すること」と「自己言及的に議論の落とし所を規定しない。言葉をひらいておく。交換(入れ替え)可能にしておく」ということはなかなか重要なことだ。

だからアートは面白い。新しい経済価値の提案と醸造を仕掛けるための自由市場。
しかもその競争の原理自体を塗り替えていくことが宿命づけられた付加価値創造産業だから。とは言っても、そもそも市場経済自体が本来そういう物なので、きっと市場経済のより先鋭化されたバトルが可能な最先端のバトルフィールドと考えることもできるのかも知れない。

ART IT!の対談企画で杉本博司さんが「アートだから値段が高い」ではなく「値段が高いからアート」なんだよっていう面白いことをお話しされていて、それはつまり「教会への寄付活動が美術館へのコレクションの寄贈」に変わっていったんだけども、その価値観の提示(誇示)としては市場価格が高いことは良いことなんですよ..っていう指摘なんですが、ある意味ことの真相の一面を捉えている気がする。でもって、そのロジックも理解しつつもさらに別のロジックも考えられるというのがとっても創造的だと思うんですよね。


いい とか わるい ではなく。
すき とか きらい ではなく。


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